野上利兵衛君墓碑銘訳文

 聖暦庚寅(かのえとら)明治二十ニ年夏五月水戸藩殉職者(殉難の士)として靖国神社に合祀(ごうし)される。那珂郡若林村、野上利兵衛君もこれによって一緒に祭られる。
君、諱(いみな=死んだ後に付けられる名)は為如(ためゆき)父を源五衛門と言い諱を為義(ためよし)。母は寺門氏(てらかど)と言い、先祖は代々平氏に繋がっていると伝えられ。「三浦胤義(みうらたねよし)」の遠裔(えんえい)=末裔(まつえい)遠い血筋になる。
 天保の変(1833)が起こりし時、源五衛門(為義)37歳、同志と共に江戸に赴き(出張)国公(藩主)の寃(うらみ)不平不満を諸侯に哀願せしが、幾何もなくして病気で没する。
 安政(1857)年に入って藩士その至誠を追賞し、跡継ぎ利兵衛君(為如)に佩刀士服(はいとうしふく)を許し、之を兵備の籍に入れ、亡父の志を継がしめられる。次いで本村組頭(ほんそんくみがしら)となる。
 元治甲子(げんじこうし)の事変起こるや、利兵衛、慨然として同志と共に南上し小金駅に至る。時に宍戸侯幕命を受け、来たりて国中を鎮(しずめ)られるに会し、これに随行し至り城に入ろうとするも奸党これを拒みし為不能、侯避けて磯浜に行き、次いで那珂湊に移動する。己にして幕府奸党を援(たすけ)諸藩に令して来たり討たしむ。同志の士、私闘は固(もとより)本意に非(あらざれば)衆議に哀を幕府に請(こい)、その命を待つ。
 十月幕府は天狗党討伐を諸藩に課し拘(とらえ)さす。利兵衛、百余人と下総関宿に連行され、明年冬武州佃島に流刑に処され、次いで本国に送られる。遂に慶応2年(1866)9月5日水戸、赤沼の獄舎に没せり。文政2年(1819)9月23日生れ。享年48歳なりき。先塋の次に葬る。鳴呼痛しき哉(ああいたましきなり)
 君、人となり長身にして力強く、甚だ角抵(すもう)を好み、若の海と称し名を知られ聞く。特に文筆に優れ俳歌を黨(したしむ)。郷土の人々に尊敬された。妻は岡崎五郎衛門の次女、久慈郡稲木村(現在の太田市)名を幾能(いくの)と称す。子供は4男2女を産み、長男、一積(かずもり)、利平と呼び家を継承する。次男の甚之介は家を出て黒澤家の養子になる。三男の鉄之助は綿引家の養子になる。4男の末吉は野上敏之介の後を継承(養子)する。長女の那都(なつ)は清水幸介に嫁ぎ、次女の幾知(きち)綿引新介に嫁ぐ。
 明治戊辰(ぼしん)元年1868年藩政改局して奸仆(かんたおれ)正起つ、正論復興するや2年春、君の功労を追録して、その子一積を遇するに世々(代々)佩刀、姓を称えしめ且つ士服の栄を以ってせられる。蓋しく(畢竟)おそらく為義君(源五衛門)の至誠は、藩公、之を為如(利兵衛)に酬いせられ、君の労は之を一積(かずおみ)利平に酬いられる。所謂積善の家、餘慶ある者哉。一積等、謀りて(相談)して石に刻み、以ってその墓を表し、余をして其の慨を序せしむ。(なげき、憤りを順におって延べるに余りある)石碑に記す。
 吁、(ああ)靖国の祀は既に山河と共に朽ちず。必ず余分を待つべし。


 明治25年冬11月 会澤鋭二撰  

野上 利平      (一積)
清水 幸介     (邦武)
黒澤 甚之介    (清信)
綿引 新介       (義局)
綿引 鉄之介    (矩金)
野上 末吉       (徳)

平成13年2月8日靖国神社社務所に御祭神調査を依頼しその回答を次のように頂きました。靖国神社からの調査結果を参照して下さい。

注)この野上利兵衛君墓碑銘(別紙)及びこの訳文は又従兄弟(またいとこ)であります野上滋氏が、系図作成の為にを送って頂いたものです。